長目小学校体育館の模造紙 2004/3/14

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くらしのようす
(昔のくらし)
・台風が来た時学校は休みになっていた。
・プールのところに職員住宅があって先生たちがねとまりをしていた。
・プールがなかったから海で泳いで小島を回って帰っていた。
市営船長目丸は1日4・5回往復していた。
・臼杵から津久見に山ごえをして働きに来ていた。
・みかんなどを船で出荷していた。
・金沢さんが小学生のころ同級生が35人くらいいた。多いクラスで50人くらいいた。全校で200人くらいいた。
(今のくらし)
・道がよくなったから、学校が早く終わったことはあったけど休みになったことはあまりない。
・道がよくなって車があるから家から通っている。
・プールは昭和53年にできて今はプールで泳いでいる。
・今はバスが1日6往復している。
・臼杵から来るまで津久見まで働きに来ている。
・みかんなどは車で出荷している。
今は同級生が2人全校で2人になってしまった。

(市営船のこと)
・昭和48年前後まであった。津久見市役所から市営船を出していた。
・津久見市がうんえいする市営船は昭和48年になくなった。
・そのあと民間の会社が市営船のかわりに昭和52年くらいまで船を出していた。1日5便あった。
・バスや自家用車が多くなったから船の利用者が少なくなった。だから船便がなくなった。

(長目〜学校)近藤さんの話を聞いて(近藤さんが子供のころ)
(昔の道)
・豊後水産のところから山ごえをしていた。
・プールのところに道があった。
・海のそばにも道があった。
・車が通れなかったころ学校から長目まで10分くらいでいっていた。
(くらし)
・戦争していたころ学校にいると危なかったから天神様で勉強していた。
わらぞうりは1日でだめになっていた。だめになったら自分であんでいた。タイヤを切ってわらぞうりの裏にはっていた
・山道を通るとき楽しかったのは遠足くらいだった。

市役所の川辺さんに聞いて
・車が通れるようになったのは、長目から浦代までは昭和35年の10月、釜戸までは昭和40年、伊崎までは昭和45〜50年、楠屋までは昭和46年にできた。
(人口の変わり方)
昭和45年2月 232世帯 1,087人
昭和55年3月 219世帯 842人
平成2年 200世帯 678人
平成12年 192世帯 542人
平成15年 190世帯 510人
・かそがが進んで大都会へ出て行ってしまう人が多くなった。