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津久見丸
背景は市営船事務所と双葉旅館
楠屋の浜 かよちゃんのパパ

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お城の白壁に使う/石灰(いしばい・げはい)+海産物(のり)を炊いて溶かしたもの/大阪に帆船で運んだ
海岸部(下浦村)は経済的に裕福だった。徳浦いりこ・いわし(めざし)
海産物はすぐ金になっていた
内名の「かねまん」という商人が海産物を買い込んで
黒島と伊崎の間に船を留め伊崎のお役所(税関)一品いくらと税を払った
さなぎ屋・小林

税関は明治四年壊した
壊す前に火事になる(修理が大変と建て替えた)
じいさんは小庄屋
広はえ(山)という茅場(かやば)馬を100頭飼っていた
管理をひいじいさんがしていた名字帯刀を許され1本刀を差していた
子役人(下役人)
役所を買って楠屋に建て替えた
屋号は楠屋西
古手川正文さんから・・・・・家の値打ちを言われたらしい
貴重な文化財でって

解脱寺も臼杵稲葉藩八画三の鬼瓦

釜戸の学校下にはお茶屋跡という所がある
殿様がひろばえでイノシシ狩りをして帰り道、お茶屋に立ち寄ったらしい
砲台があった(今の楠屋灯台あたり)

天保7年佐々木金三郎の娘が
絹の着物を着て祇園祭に参り見つかる
お金を払って許してもらった7日

内名のカネ万(小林先生)
ここから小判が30枚大判が2−3枚出てきた

蛇紋岩(じゃもんがん)楠屋の入口に採石跡がある
セメントに混ぜていた
こうのしま

網方をしていたころ網子が生活苦で取り分を4分6分を5分5分にしてほしいと頼んだが断った
そこで網子は別の網を始めた
網子がいなくなり、よそから網子を集め、船を大きくして対馬に漁に行く
海が深くて網が使えなかった、その後経営は傾いていった
部落の土地大半を持っていたが、いい所から土地を売っていく
対馬の彼女に子どもを生ませたのか?楠屋西を訪ねて子どもが来たが
訪ねられた人は教えなかった

荒代(伊崎と楠屋の間)
沖平(おきびら)という畑の地名がある
荒代と楠屋の間の鼻を「オシマエ」
楠屋側を上オシマエ、荒代側を下オシマエ
初日の出は観音崎のちょっと北側
水平線から月が出ると浜茶屋の加茂さんは教えてくれた
夏はじゃもんがんの掘り割りから撮影だな

織田清綱さんから道尾組庄屋の古文書にあんたかたの名前が再々出てくる
何かあるだろうと言われ探したそうな
家を壊すときかなり捨てたらしい
鬼瓦など屋根から放り投げた、わずかに残った物を取っておる
伊崎の公民館にも飾っているそうです
古文書などはこおりでいくつもあったが捨てたそうな