みんなで使える運動場を造ろう
(赤八幡外苑運動場の建設)
津久見市は昭和8年(1932年)旧津久見町、青江町、下浦村が合併して津久見町として発足しました。その後、昭和26年4月、日代村、四浦村、保戸島村が合併して市制を執行致しました。
昭和7年、前記町村が慎重審議を重ねて三ヶ町村合併を議会で議決して準備体制に入りました。旧津久見町では時の町長が巌義円氏で、議員は執行部と協議を重ね、区民の要望は区長さん方が代表して整理事務に入り、各区区長さん方は整理金を持ち寄って彦ノ内、中田両区は公会堂の建設資金に充当したと聞いております。
その当時、合併議決しながら何か意見の相違を来たし、今度は合併反対の声が出て区民総会を開くという事態まで起き、生みの悩みというものもあった事など今は殆んど忘れ去られています。
私は当時青年団の副団長で団長が巌町長さん、大先輩に大村梅夫さん、加藤録平さん、山口雅史さんなどおられました。この方々と相談して将来運動場建設資金に充当する為、旧津久見町の町有財産整理の中から―部を是非とも頂きたいという事を町当局に陳情いたしましたところ、議員さん方のご協議の結果大枚5千円也を割愛してくれました。これを基金とすることにして、赤八幡社の総代会にお預けして後日を期しました。
予定どおり昭和8年4月新津久見町は発足致しました。3ヶ町村にあった青年団も幹部会を再三開いて協議した結果、他の諸団体に先駆けて大同団結する事に決定、新しく津久見町青年団が発足致しました。団員総勢1千3百人で初代団長が石田秀夫、副団長が鳥越国夫さん、姫野守さんでした。
越えて昭和11年5月下旬、私達旧津久見地区青年団は先輩組織団体である消防団(未だ3町村統―団体になってない)団長加藤録平さん、及び在郷軍人(末統―)会長宗喜太吉さんと協議した結果、旧津久見町の3団体の幹部会を元の魚市場の二階(現大分銀行津久見支店)に召集し、文化的施設を議題にして意見交換を致しました。
その結果、赤八幡神社外苑に運動場を作る事を決定いたしました。その当時、青年団では毎年北海部郡青年団対抗の陸上競技大会が臼杵公園で開催され、毎日夕方現在の郵便局付近の埋立地で練習していましたし、小学校では少年野球、青年層ではオール津久見が野球で活躍し始める等運動熱の勃興期でもありました。団体の代表会議で労働奉仕で造るという合意が誰一人の反対も無く決定するなど、今から見ると夢の様で涙が出るほど有り難い事です。
早速、翌日3団体の代表宗喜太さん(宗喜太吉氏)、山録さん(加藤録平氏)と石田で宮ノ原(赤八幡宮司宅)に行き、宮司の西郷十郎氏に委細を申し上げましたところ、一両日待ってほしい,宮総代さん方に相談するという事になり、6月12日の総代会に私達3人が呼ばれました。
出席して3団体の意向を伝えますと、当時は未だスポーツに対する理解の薄い時代で、外苑に運動場を造って神域を靴の裏に金具をつけて(スパイク)踏み荒らされては困るという様な意見も出る時代で、私達は東京の明治神宮外苑運動場で全国青年団の陸上競技大会が開催され、津久見からも古田覚君(千怒出身学校教師)が出場している事や、宇佐神宮の外苑で相撲大会が開催されている事など、外苑運動場を一般社会教育の場として活用したいので納得してほしいと説明、ご了解を頂くと共にご支援をお願い致しました。
翌13日小雨の降る中、テントを張って地鎮祭が招魂社の前で宮総代加藤柳太さん、上杉友治さん他と3団体幹部他多数出席で鎮の儀も厳かな内に無事終了いたしました。翌日から直ちに用地買収に取り掛かりましたが、当時の地価について申し上げます。最も現在のグラウンドは全部田んぼで然も深田で一毛作、一部には蓮根が植えてあり夜など淋しい所で、冬期になると鴨が来まして現在近藤歯科医のある付近は畦道があって、夜8時9時頃通ると鴨がガアガアと鳴いて飛び立つ様な所でした。
―畝(約1アールが金30円、一坪(3.3平方米)1円、所によっては35円、最高が45円と覚えています。某奇篤な人が運動場を造るというのなら、俺方の田が1枚あるので無代で八幡様にあげますという事などありました。
とにかく、招魂社の下側の田を1枚買収して地鎮祭後3日目の6月16日から作業を開始しました。もっとも現在なら土木工事に優秀な機械が利用されますが、当時はガンズメ、ツルハシ、チリトリ、モッコウに天秤棒などが武器で、奉仕作業はこれから毎日毎日続いたもので、その状況を申し述べますと、今では労働時間は1日8時間とか定められていますが、当時蜜柑作りをしていますと一般的に働く時間は日が出て日が入るまでが作業時間で、無償奉仕される方々も日が出ると仕事を始め日が入るまで努力してくれたものです。奉仕団体は前にも説明しました3団体が主体ですが、一般家庭の方も数人づつ組んで奉仕に参加してくれました。
また別格の特別奉仕者があります。小嶋一八郎さん(小嶋監督の父)、伊東武市さん(津港)、大村宗太さん(大村肉店)、野上庄太郎さん(蜜柑問屋)の各位で、実に熱心に毎日ご苦労してくれました。仕事も色々と指図してくれますが、交渉事になると若い私共には真似の出来ないところであります。
土地の売買交渉で難渋しますと、相手に対して「コラ、ナニ言うちょるか、お前そげな事言うちょると明日の朝までにゃ八幡様んバチかぶって口がひん曲がってしまうど」「お前ん方ん田じゃと思って田の中に入ってみよ、お前ん足がたった今、曲がらんごとなるぞ」と言う様な言葉が、本気とも冗談とも言えない口調で飛び出すもので、土地売買交渉に立ち会っている私共はただただオロオロするばかり、然し外部団体とも言えるこの方々の努力と熱心さは有り難い極みでした。
然らば土地買収経費及び運搬土砂などに要した経費は、まず第一が前に説明した旧津久見町からの5千円です。第2は町内企業に対し寄付を申し込みまし
た。小野田セメント(株)に対し3千円、太平セメント(株)に対し2千円、貝島化学鉱業(株)に対し1千円、以上3社が当時津久見町内の大型企業で、町民広場として赤八幡外苑運動場建設に是非ともご協力頂きたいと再三出向いてお願い致しました結果、前記金額をご寄付いただいた次第です。
新津久見町に対し寄付の申し込みを致しました。今で言う根回しですが、旧津久見町出身の町会議員さん方を訪問し陳情いたしますと、無論必要性は認めてくれますが、金額になると3千円とか5千円とか私共の予算予定額とは相当の相違があります。
ある日のこと、今晩は徳浦の議員さんを訪問して陳情しようではないかという事になり、提灯を用意して徳浦越え(徳浦トンネルの山)の山路を通って平林安―議員さんのお宅に参りました。私共は熱心に経費内容等を説明申し上げますと、議員さんが津久見には若い者の広場が無い、将来の為にも是非必要だ、色々と困難にもぶっつかると思うが是非とも完成してほしい、この様な有意義な計画に対して町が支援するのは当然だ、予算内容を見ても1万円の要望は無理はないと思う、協力しますから諸君もがんばってほしいという返事をいただき、我々の前途も明るい輝きが出た様で11時頃又山道を提灯の明かりで帰ってきました。
私共は勇気百倍とでも申しますか、翌晩から津久見の議員さん方の訪間を続け、遂に町から1万円拠出して頂く事になりました。しかし、これには条件がつき、買収する土地は町有名義にする事と完成後は町にこれを移管する事という内容です。
然しながら、宮総代を始め特別協力者、3団体代表の総意はこれほどまでにして皆さんのご協力ご奉仕を頂き、完成したら町有にするという事では納得がいきませんので町当局と交渉に入りました。交渉が長時間かかっておりますと、特別奉仕者の猛者連が部屋に入ってきて、独特の口調で熱弁をふるい「若ケーもん、役場の奴共の口車に乗るんじゃねえぞ」と言ってさっさと引き揚げてしまいました。
この交渉の結果は、移管という事は町が維持管理をしてあげることだという事で解決がつきました。その後、町当局市当局が現代まで掃除、砂入れ等一切維持管理をしてくれています。以上の様な結果、資金面は合計2万1千円也、これが総事業費となった訳です。
次は深田の埋め立て状況を説明しますと、埋土の一部は旧庁舎の裏山(宮山)から土工用のレールを敷いてトロッコを手押しで運びました。この作業の責任者は小嶋―八郎さんで、毎日毎日汗と泥まみれで続けたものです。
又一方、石灰石山の廃土を荷馬車で運搬しました。その荷馬車賃は一部は企業負担、一部は造成経費から負担するのですが8月の炎天下で馬も大変です。それで夕暮れ時に積込んで、翌早朝涼しい時に第一便が着きます。一台ごとに馬車名を記入した証紙を渡しますが、作業奉仕者が来るまでに馬車が来るので毎朝早く起きては荷受けをした事がつい先ほどの様な気がします。
この運動場は深田を埋めますので、水位が高く排水という点では苦心しました。溝に向けて何本かのメクラ暗渠をつくり、一周2百米のトラックと野球場の内野守備範囲には石炭ガラを敷き詰めてあります。その石炭ガラも青年団が下ノ江駅まで貨車に積みに行き、津久見駅の貨車引込み線から今の鳥居の付近まで貨車を手で押して来てスコップではね落としリヤカーに積み替えて運び敷き詰めました。表面は砂と赤土を篩いにかけて仕上げをするという様な事をしました。
こうした作業が6月中旬から12月10日頃まで毎日続いたもので、表面の地ならしには小学校の生徒さんまで出動し、重い石のローラーを引っ張ってくれたものです。奉仕延べ人員3千5百人、奉仕人名簿は分厚いノートに毎日記入し、大変汚れておりましたが赤八幡社に永久保存して頂く様お願いして奉納致しました。
旧庁舎の隣りにタバコ屋の前島覚さんという方が居りました。お隣りが平野屋さん、裏に前島百太郎さん、この方達が3,4軒組で工事が始まって三日目午後3時頃。おやつを奉仕者にということで握り飯とタクアンを一もろぶた持って来てくれました。昼飯は手弁当ですが、日の出から日の入りまでの長い労働時間の一日です。おやつ、感謝いっばいで頂きました。
次の日はその隣組の方が又3,4軒で持って来てくれました。次の日も、その次の日も遂に6月中旬から12月上旬の全工事が終了するまで、宮本をスタートし岩屋、彦ノ内、中田、西ノ内と続きました。この様に全家庭の方々が毎日毎日欠かさずご協力下さった事でこの外苑運動場は皆さんのご理解とご協力の賜物で、皆さんの共有物で、皆さんの健康増進とスポーツを通じてルールを守り親睦を深め、明るい社会作りの殿堂でなければならないと信じています。
次に外苑の一角に近傍には稀な見事な大鳥居があります。その建立について事実の事柄をお話します。当時、グラウンドの東側一帯は区画整理以前で、田と畑で現代の立川歯科医院の裏に避病院と称する隔離病舎が―軒あった位でした。
田や畑の肥料は殆ど下肥(人糞)でした。殆んど出来上がったグラウンドで陸上競技の選手が練習する、野球の選手が練習する、その中を横切って通るのに急いで通ってくれれば良いのですが、山ノ手側の人が肥桶を天秤棒で担いで横切っていく、これには困りました。そこで思いっいたのが、宮ノ前の人は参道を決して肥桶を担いでは横切らないという事実から、神域とするには鳥居を建てることだという事になりました。
誰か鳥居の寄進者は無いかと物色したがなかなか容易なことではないので困っていると、駅前の上杉作太郎さん(通称上作さん)が「いい人がいる。あん男は今は大成功して大親分になっている。若い頃あばれ坊でしかも頑健で、魚が市場に上がると天秤に担いで峠を超えて臼杵まで売りに行き、町内を売り歩き―杯飲んで元気が出ると赤べこひとつで売りまわる。この男が若松、八幡でゴンゾウ(仲士)の大親分になっており別府に別荘まで持っている。この男に頼めば承知してくれるかもしれん。」という話を持ち出しました。
その方は竹尾筆吉さんという人で、然らば何尺物をお願いするかと言うので赤八幡境内の鳥居の高さを物差しで計ってみると、最高が14尺(4.25米)、作叔父さんに16尺(4.85米)のミカゲ物で交渉してもらいました結果、満点の16尺物を寄進しようという返事をもらったという報告を受けました。ところが前にも申し述べた小嶋の親父さん達が、「そげなこんめえ物は建てさせん、せめて18尺か19尺物を貰ってこい。」それは大変な難題です。何となると価格が二倍以上かかるからです。
上作さん仕方なく再度出向いてお願いした結果、「21尺物を寄進しましよう。俺が極道をして津久見から追い出された時が21歳、バクチのサイの目が21じゃ、21尺物を生神の八幡様に寄進しよう。」という返事をもらって帰ってきました。朗報を頂き取り敢えず礼状をだすやら、お繰り合わせを頂いて津久見にきていただき八幡様へ報告祭を執り行いました。頭の上で金色の大きな御幣がジャラジャラ鳴った事など忘れ難いものがあります。
石材は徳山産のミカゲ石に決め、私の知人に三光丸、伊崎仙―さんという人がいまして、ミカゲを積んできて帰りに石灰石を積んで帰っていたので直ちに打電、来てもらって宮ノ原で先輩諸氏を交え石工木村孫―さん立会いで納入契約を結びました。船が巨大な粗石を積んで角崎の昔の京都屋の裏(現竹林ふとん店辺り)で荷揚げをしましたが大変な量の素角材でした。
当時はクレーン車があるでなし、勿論重量運搬車があるでなし麻生保治さん(合同新聞記者麻生さんの祖父)が棟梁で、樫の丸太ゴロを下に敷いてカグラサンで青年組が「ソーラ巻いた、ヤーレ巻いた」の掛け声で角崎通りを鉄道の踏み切りまで来たところが、駅の人が来てその様な重量物を線路上通行罷りならぬと差し止めをくいました。これには困ったと頭をかかえていると、小嶋一八郎親父さんの決断と命令で、全部ここまで引っ張ってこい、運搬準備万事整ったある晩、千怒崎の若連中3、40名を動員して鏡開きし、終列車の通過を待って掛け声一声、一気に線路上を乗り越えてしまったのです。
運動場まで運び、石工木村孫平さんが弟子達と槌と鑿で毎日毎日精をだして作り上げ、組み立ては竹本武―さんが責任者でやぐらを組み、八重のボロッコを使い建立しました。時に昭和12年3月完成
碑文に 粛々仰其明
洋々亨其誠
碑文は戸又兵衛さんにお願いして、義叔父に当たる白須心華先生に来て頂いて石材に直接揮毫して頂きました。この除幕式が又大変で餅撒き用として15表を青年が代わる代わるつきました。
津久見で硬式野球の最初といえばこの外苑グラウンドに臼杵中学校と佐伯中学校を招待して初試合を致しました。臼中の選手の中に小嶋仁八郎君、大石雄一郎君、樋口泰之助君、染谷孫一君の津久見出身者がいます。審判は樋口啓治、鈴木虎夫、浅田捨男の各氏が行いました。小嶋君の打った飛球が鳥居の額の下横一に当たりますと、多くの観衆が「ホオ野球のタマちゅうもんは遠くに飛ぶもんじゃのう」、とウナリ声が今も耳に残っています。これが津久見のホームラン第一号です。
今や、不完全ながらナイター設備も出来て、この外苑運動場の利用度は県下一ではないかと思われます。当市にとって共に楽しむスポーツの街つくりは社会教育の重要なポイントです。夏の夜空に町内対抗ナイターソフトボール大会、参加数百二十幾チーム、観客動員数は市の総人口以上は間違いなし、親睦、親善、効果満点、市制の発展を祈って書きとどめます。
赤八幡社外苑運動場
面積 1,町有名義 4反3畝15歩
2,神社名義 7反0畝05歩
計 1町1反3畝20歩
内、現在市庁舎に利用 2反8畝12歩
運動場8反5畝08歩
昭和53年8月 石田秀夫